ギフテッドはいわゆる英才教育では育たないし、持って生まれた何か強烈なエネルギーを持った子っていう印象があるんだけれど、やっぱりこの言葉を使うのに言いよどんでしまうのは言葉の意味が人によって解釈違いが起こりまくる恐怖から。
(我が家の次男は診断はないけれど、2Eギフテッドっぽさが当てはまるので便宜上そう表現するけども、「分類することに意味はない」と最近は感じてます。)
もう7年くらい前になるかもしれないけれど「異才発掘プロジェクトROCKET」が「発達界隈」で流行っていた頃、「あぁこれはまずいぞ」って何となく思ったもので、
いわゆる「デキる発達障害」が突出していくことが、なんか大人に消費されているような気配がありました。
子どもの個性を伸ばす、というよりも、大人の恣意的な何か・・・スーパー人材を生み出したいというか・・・そして、世の中は「デキる発達障害」しか相手にしないのだと落胆した記憶が。
何も持たない発達障害(だけでなくすべての子)を結局は「持たざる者」として下げられしまう気もしたし、正直「どうせうちは〜」みたいな気持ちにもなりました。(これは長男に対して)
ところが、今日偶然、見つけたLEARNという団体。
異才発掘プロジェクトROCKETから発展した団体のようで、もうその沿革を読んだだけで、涙が。
素晴らしいので読んでほしいですね。
https://learn-project.com/about/
それと、中邑賢龍さんがYouTubeでお話ししていたことが、「あー!それ思ってた!」ってことだらけだったので、こちらもぜひ。
さて、ギフテッドと呼ばずに何と呼ぼう。
というか、子どもを表現するのに、何かカテゴリーを必要とするのは、
自分の心の弱さだと最近感じています。
カテゴリーがないと、存在しちゃいけないのか。
カテゴリーをいうことで、パッと直感的に理解してもらおうとする怠惰なような気も。
カテゴライズすることで安心するのをやめたいね。
少し前は、人格を表すタグのようなものだと思っていたけれど、
そんなタグに支配されたくないなって最近はよく思ってます。
ね、いろいろ。