こんにちは。雑記です。
先日とても心を揺さぶられること(っていうか疲れたこと?)があったので、
その衝撃を忘れないうちに書きます。
(この文章は、忘れないうちにその日のうちに書きました。でも
時差投稿することにしました)
眼科の待合室でのことです。
たまたま隣に座っていた高校生くらいの親子さん。
学校で怪我をしたのか、養護の先生らしき人と生徒が先にいて、
後から母親が駆けつけた様子だったんですけど、
しばらくして、先生が学校に戻りますと言って帰ったんです。
で、親子2人になって、診察を待っている状況に私が居合わせていたんですが。
まぁそのお母さんの態度にドッと疲れてしまった。
「先生行っちゃたね。もう少し様子気にしてくれてもいいと思うんだけど」
から始まり、
「この眼科は評判が悪いから連れてきて欲しくなかった」
(受付に聞こえてますって…)
「あなた(息子さん)一人でも別に大丈夫なはずだけど」
「そもそも何をしたら目をぶつけるの」
「あ〜雨が降ってきた。傘を教室に置いてきた?どうして出るとき持たないの」
(そりゃ慌てて車に乗せられて出てきたんじゃないかな…)
こんな会話がノンストップで続き、息子さんの返事を待たずに続くんですよ。
息子さんの顔は見られなかったけど、
「あぁ、うん」「そう」みたいなことしか言ってない。
きっとうるさいなぁって思ってるか、恥ずかしいなぁって思ってるか…
(年頃の男の子でしたが、慣れっこなのかキレてる様子もない)
わからないけれど、この数分ですら私はもう疲れてしまった…
自分の目の具合が悪くていったのだけど、心まで疲れてしまった。
(勝手に疲れてその親子には申し訳ないけれど)
ただ、大なり小なり、こういうシーンはよく見かけるんですよね。
小さいお子さんに対して、お母さんがあれこれと世話を焼いたり
「あれしたの?」「これしたの?」「自分でやらないと!」「どうしてこうしたの!」と言ってしまう。
(ほんとに理由聞きたいと思ってる?だってこうだから、と理由を話してもキレてしまうことない?私はある 笑)
あ、これはお説教記事じゃないんです。
私もそうだったから…お説教なんてできません。
ただ、振り返って思うことは、
「別にそんな言わなくてもよかったな」ってことばかりでした。
「いつかできるから大丈夫」って話につながるのではないのです…
真逆の記事です。
「できないものはできない」
「やりたくないことは続かない」
「やりたくないことを続けるエネルギーはやりたい事に注いだ方がいい」
こんな身も蓋もない話です。笑
やりたくないことを一生懸命やることって
すごい美徳化されていますが、
多分限りある時間の中でもったいないことだらけだと思うんです。
忍耐力とか、粘り強さとか、そういうものが無意味ということではないです。
ただそれをどうしてやりたくない事、苦手なことで補おうとするのか、ということが疑問で。
「何かができない」→諦めずにやる→「忍耐力がつきました!」
という構図は、ぜひ、「好きなこと」でやって欲しいんだよなぁ〜って
常々思っています。
閑話休題
今ふと思ったのが、私は縄跳びが苦手だったんだけど、
どうしてもみんなに追いつきたくて頑張ってたんだよね。
こういうの動機はもちろん大切にしたいと思うんだけど、
できない人がだめ、みたいな構図がもしなかったら、私やったのかなぁ?
「縄跳びができないのはあなただけ、恥ずかしいから頑張ろう」みたいな構図がなくて、
「縄跳びができなくてもあなたにはこれがある。素晴らしい」って言ってくれて、
周りのみんなも、「僕はこれはできないけどこれができる、素晴らしいんだ!」って本気で思っていたらどうだったんだろう?
私は縄跳び頑張らずに、好きな事を誇れる自分になっていたのだろうか?
(お絵かきが好きだった)
話は戻ってこの高校生親子、具合が悪かった私には、お母さんが、強烈過ぎましたね。
でも一歩間違えると自分もあれこれうるさく言ってるので、
人のふり見て我が振り直せ、って事だと思い、記憶しておきます。
では。